
フィリア・
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アーティクル
愛着障害の克服に必要な言葉の4条件
では、どのような言葉が必要なのだろうか。私見によれば、愛着障害の克服のために必要な言葉や思考、思想は、以下のような4つの条件を満たしている。
1、特有の苦しみをよく表現していること
2、受け入れ可能な道筋を示していること
3、その言葉が、少なくともその個人の人生を包摂しうるだけの広さと深さを備えていること
4、その言葉が同時に、その個人の人生や生活においても有効なものであること
第一の条件に関して、愛着障害の苦しみは、経験したことのない人には全く理解できないものであるため、しばしば孤独を伴っている。その断絶を超えて来るものがあればそれだけで勇気づけられるし、逆にその溝が埋まらなければ話は出発点に立つこともできない。ところでこの共感性は、カウンセリングなどで思いを受容的に聴かれることによっても近しい効果を得られるが、本当は外から必要な言葉が来る方が望ましい。もともと問いが個人を超えたところに達していて、自分個人の言葉に自分の人生を委ねられなくなっているのだから、語り受容されることには意味があっても、自分の言葉そのものには実のところあまり意味がない。語り受容されることは、聴き入れるための準備である。
第二については、精神/心理療法がトラウマやスキーマを解毒し、可能ならそこに意義を与えて、統合を図ろうとすることと同様である。
第三は、愛着障害が個人の人生を超えた、世界との絆の障害なのだから、その言葉もまた人生を超えた世界の次元のものでなければならないという、当たり前のことを言うに過ぎない。絆創膏は傷よりも大きくなければ使い途がない。それでも、医学や心理学にはこの点が本質的に不足する。こういう言葉は、既に前置きなくそうしてきたように、多かれ少なかれ哲学的・宗教的な色彩を帯びることになる。
第四が規定するのは、いかに言葉が個人の人生を包摂していても、人間は人間として生活しているのだから、同時にその生活の場においても有効な言語でなければ意味をなさないということである。宗教や思想の言葉も、生活の中でも生きいきと意味を持っているのでなければ、単なる思弁やトートロジーとなって実際の効力がない。生きられた思想でなければならないし、母語と呼べる程度まで感覚や感情の神経が行き届いている言葉でなければならない。
これらの条件を満たすとき、言葉はその人にとって非常に美しく感じられる。示された統合の道筋について、頭だけの理解ではなく、心から“いいな”と思えるのである。そういう言葉や思想が、人を愛着障害の苦しみの中から救いうる。
なお、こうした条件は言葉だけに当てはまるものではない。ある人にとって、何かの風景や絵画、音楽などが先のような条件を満たしていて、さほど多くの言語を介さず、ほとんど直観的に世界の愛を看取するということも起こりうる。媒介が言語的である方がよいのかどうかは、個人の適性や感受性の違いによる。ただし、意味的な統合という要素を思えば、言語的なアプローチの方がまだ容易であり、また具体的な方向性が示されやすく、そのぶん定着もよいのではないかと思われる。
しかしその点、現代の日本語の情勢は厳しいと言わねばならない。とりわけ宗教的言語については、特に1995年を境に宗教そのものが比較的はっきりと敬遠や忌避の対象へと傾き、単なる知識としてもほとんどタブーとなって、人々の言葉や思考の中から急速に忘れ去られつつある。そのような瀕死の言葉が人々の生活の中で立場を回復するには、幼少期の教育などに極めて正しい力を相当の労力をかけて注ぎえたとしても世代単位の時間がかかるだろう。少なくとも今の私たちは、日常語の中に僅かに残された、世界との絆となりうる言葉をどうにかして拾い集めるより他にない。
残念ながら、この書き物がそういう条件を満たすとは思われない。各々が困難を越えて、自分にとってのいのちの言葉を探さねばならない。これは決して容易な道程ではない。暗く重苦しい日々が続くことだろう。時に誤って偶像を愛することもあるかもしれない。それでも、これぞと思うものに出会ったときには全身全霊で信じてみることだ。そうやって求め続けていればいつか、愛そのものが心の中に根付いて、世界を、人を、そしてあなた自身を愛せるようになるときが来る。これは本当のことだ。「パンを望んで石を受けることはない」。私はこの容易ならざる道をゆく友として、あなたと共にあれればよいと願う。