top of page
IMG_0781.jpeg

​アーティクル

愛着障害と精神療法②

 このような直観的・非言語的な方法に対して、言語的なアプローチを取るのは、認知行動療法やメンタライゼーションである。元となる経験がトラウマ化していれば、持続エクスポージャー療法などのトラウマ・ケアもそこに含まれてくるだろう。言語的な気付きや認識により、世界と自分との関係性を中立的ないし肯定的なものに矯正することを目的とする。世界からの愛を思考・思想の枠組みで読み取ることを学ぶのだ。

 そうした方法論自体は正しいものの、避けがたく問題となってくるのは、医学や心理学に属する言葉が愛着障害に対して本質的に力不足だということである。それは、これらの学問が生物学的生命や生活の次元を扱い、人生ともなれば手に余るものも出てくる一方、愛着障害は既に述べたように、明らかに人生を超えた次元の問いを伴うからである。

 少し極端な例を出すと、愛着障害は脳科学的に言えばオキシトシンの不足だと既に特定されているが、そういう説明を聞いて頭では理解できても、心では何か貶められたような気がするのは決しておかしいことではない。なぜなら、私という個人を通じて生きられるはずの目一杯のlifeが、たかだか人間の枠内の医学・心理学的現象として現に貶められているからである。それどころか、この物質を補充したり、生成を促したりすることによって安定的に愛着障害を治療する技術のない今、こういう説明を聞いて「私は脳がダメだから治らないんだって」と自分自身に皮肉な烙印を押した相談者を、私は幾度となくみてきた。そしてこの重い副作用は、実のところ、愛着障害を「愛着障害」という言葉で語ることにも通じているように思われる。

 無論、そういう用語で記述することをやめるべきだなどと言うつもりは毛頭ない。医学的な治療法が確立することを私は切に望むし、理論を構築して提言することで愛着障害を生む社会的状況の改善に役立てることもできる。けれども、そういう記述そのものによって、既に愛着障害に陥った人が根本的に救われることは恐らくない。

 また別の角度から言うと、医学や心理学はもともと人間を対象とする学問であるから、問題や解決が個人の中に押し込められる傾向がある。「自己実現」などがその最たる例であろう。ロジャーズの言うとおり、どんな犠牲を払ってもこれをやる価値があることには私も同意するが、それが自我を踏み越えての自己だとしても、それは文字通り自己であって、どこまでも個人の次元を超え出ない感が否めない。人間は死すべき存在である。終着点は自己ではありえない。

​ とはいえ彼が正しかったのは、あくまで個人の渇きを癒すことを第一として決して手放さなかったことである。「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」。道元のこの言葉がいかに正しいとしても、愛着障害に苦しむ人は内臓を刺すような痛みを感じることになる。「今までこれほど自己を失ってきたのに、これ以上何を失えと言うのか」と。似た形の過ちが特に、罪を教義の中心付近に置くキリスト教や浄土真宗において、無思慮な僧侶たち・信徒たちによって繰り返されている。親鸞は自力的な努力によって己の罪悪をほじった結果として阿弥陀の膝下へ辿り着いたのではない。彼の罪悪感はおそらく幼少期の逆境体験を通じて自ずと生じたものであって、ただその苦しみに釘付けにされているだけで、彼の機はすでに十分に満ちていたのである。必要なのはさらなる苦行ではなく、例えば「大悲無倦常照我」といった美しい先達の言葉であった。その種の自力的な精神的苦行は自分から進んでする分には毒にも薬にもならないが、他人が強いれば自殺さえ促しかねないものとなる。繰り返しになるが、まずは世界からの愛が個人を温めることが、愛着障害への対処においては最優先なのだ。無条件の肯定的関心とは愛に他ならない。その上で、あくまで自分の意思によって、自己を忘れることへと進んで行かねばならない。そういう意思を養う言葉があるということだ。

​back    home    next

​ご予約・お問合せ

​ご来談を心よりお待ちしております。

救いに向かって

フィリア・カウンセリングルーム

 

 

和歌山県紀の川市貴志川町神戸

Open:土・日・祝   8:50-21:30

ロゴマーク

© 2035 by Modern Mindful Therapy. Powered and secured by Wix

bottom of page