
フィリア・
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アーティクル
愛着障害の苦しみ
人が苦しみを抱えるとき――生きる意味を見失い、居場所がなく、空虚感とエネルギーの不足に苛まれ、自己肯定感が低く幸福に値しないと感じ、謙虚さゆえに他人に利用され、時に社会的失墜を伴い、そのような痛みを誰にも理解されないあの深い孤独を感じるとき、私たちは世界との絆を失っているのである。
私たちが生きるということは、私たち個人で完結するものではない。「life」という語を引いてみれば、「生物学的生命」から、「生活」、「人生」と、個人の範囲内でさえ幾重にもおよぶ上に、私たちを生んだところの連綿と続く「いのち」の営みも、延いては宇宙全体を流転せしめる超越的なはたらきまで、すべてlifeの一語で表しうる。私たちの生は、個人を超えたlifeの大地が、ある時間と空間において、個人という小さな木を育んだようなものだ。私たちは木と異なり自由に歩き回れるように思っているけれども、実のところ大地との接続を断たれては生を全うすることができない。
私たちは世界に対して圧倒的に劣位にある。私たちはこの世界に後からやってくるのであるし、自分の意思で望んで来るのでもない。そして生まれた後も、世界の営みは個人をいとも簡単に、盲目的に押しつぶす。病気、寿命、飢餓、戦争、犯罪、事故、差別、虐待‥‥すべて世界に癒しがたく組み込まれているものだ。
そういう一方的な力関係の中で、私たちが個人としてありながら、個人を超えたlifeを生きられるためには、はじめに後者から前者への愛が感じられる必要がある。言い換えれば、私たちは世界から喜んで受け入れられたという感覚を必要とするのである。これが反対に前者から後者への愛であれば、それは空しい片思いに過ぎず、はじめにあるものとしては何の効力もない。あくまで世界から個人への愛が、世界と私たちを結ぶ第一の絆となる。
そして、その愛の最も一般的な受肉こそ母子関係であることは言を俟たない。ボウルビィが明かしたのは、まさにその点のメカニズムであった。逆に言えば、愛着理論の射程は、医学・心理学的な概念として、単なる母子関係や、子ども個人の予後を説明するに止まらない。これは、個人を超えた世界との絆についての説明、宗教的に言えば聖母子像の科学的記述だと言ってもよい。
だからこそ愛着の障害は、世界と個人との絆の障害として実存的な問いを惹き起こす。すなわち、個人が生きるということの根底が崩れて、生きる意味がわからなくなるのである。大地から切り離され生気を失くした木と同じように、人は人生の淵に立たされ、虚無の厳しい風を防ぐエネルギーも得られず、次第に生活や生物学的生命の次元さえ実際に脅かされることになる。いわゆる死に至る病である。これは、単なる身体的な怪我とは全く次元の異なる特有の苦しみであって、経験したことのない人にはどれだけ説明しても伝わることがない。