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アーティクル
愛の2方向
ところで、愛とはそもそも何であろうか。なぜ人は愛を必要とするのだろうか。
愛の本質は自己否定である。わが国では仏教の影響によって、愛欲や肉欲のイメージが色濃いが、これは人間的欲望の充足、自己の拡大であって、どちらかと言えば恋と呼ぶべきものだ。本来の愛とは、自分の思いとは無関係に自己を否定し、他者を受け入れるはたらきである。キリスト教は、善人にも悪人にも等しく慈雨を降らす天の愛を教えている。仏教においても、「慈悲」という言葉を考える上では、「愛(かな)しむ」という読みがあることを知っておくべきであろう。
それゆえ、愛とはとても厳しいものだ。純粋な愛はときに、人間的な思いや欲望と激しく対立する。赤ん坊の世話に明け暮れ自分の時間をすっかり失った母が、ふとわが子を疎ましく思う気持ちに胸を痛めるのは、彼女が冷酷だからではなく、むしろ愛とは何かを知っているからである。
こうして他者の愛によって空けられた時間と空間によって、はじめて自分の存在が許される。人が生物としてだけでなく、生活や人生においても十分に居場所を与えられるためには、多かれ少なかれ他者からの愛が必要となる。それは何も赤ん坊に限った話ではない。ただ赤ん坊は、個体として無から有へと絶対的な転換を経てくるだけに、幼少期に愛されるかどうかの影響もまたほとんど絶対的な仕方で受けることになる。
ところで、人間は死すべき存在である。私たちはどれほど愛に恵まれて生きることができても、この世界に組み込まれた寿命や災厄によっていつかは世を去らねばならない。また死は文字通りの死ばかりではない。成長であれ衰退であれ、昨日の私を日々失いながら生きるという意味では、私たちはいつも死を迫られている。言い換えれば、私たちはいつも自己の否定を、すなわち愛することを迫られているのである。
したがって、人は世界から愛された上で、反対に世界を進んで愛することへと転じていかねばならない。後者の愛が、世界と私たちを結ぶ第二の絆となる。
この第二の絆がどのような形を取るかは個人によって様々である。ほとんどの場合は何らかの対象を伴い、誰か、あるいは何かの組織や主義に忠誠を尽くすこともそうであろうし、子孫を生み出すこともそうであろう(これは文字通りの子孫の場合もあれば、仕事などの同輩であったり、あるいは何らかの作品であったりもする)。これらは一見すると、世界に自己の代わりを遺すという仕方での自己拡大のようでもあるが、母親が子を産むときに大きく若さを失うように、そこではむしろ世界へと自己を明け渡しているのである。世界への愛はしばしば、こうした誘因の裏に隠された自己否定として現れる。この第二の絆があって、人は安心して死んでいくことができる。
世界からの愛と、世界への愛という、この2つの愛の流れを、例えば西洋の伝統ではアガペーとエロースとして、浄土教では還相(げんそう)と往相(おうそう)として表現してきた。心理学においても、エリクソンの発達段階などにこれを読み取ることができる。
この2つの愛は、いみじくも「相」として記されたように、根源を同じくする1つの愛のアスペクトである。そして、その愛の健全な流れは、世界からの愛が、私を通って、再び世界へと向けられていくという順である。
ところが、愛着障害の場合は、最初にあるべき世界からの愛が不足しているために、世界を愛することが難しい。あるいは、順序が逆になって現れることもある。個人が世界を愛することに傾倒し、その見返りとして世界からの愛を渇望するという流れになるのだ。親鸞もまた、あの過酷な生涯を過ごしたがゆえに、おそらく当たり前のようにこういう順で書いたのだろう:「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。“一つには往相、二つには還相なり”」と。
彼に限らず、この渇望に突き動かされて偉大な足跡を遺すに至った人々は少なくない。それだけ強大なエネルギーだからこそ人はひどく苦しむのである。そして、こうした順序の転倒はふつう日常においては、他人の顔色や評価をひどく気にする見捨てられ恐怖を核として、引きこもり傾向、過度な依存的・自己犠牲的態度、注意を惹くための非行といった現れ方をする。こうした行動は社会適合に支障を来すことも多く、世界からの安定的な愛を必ずしも呼び込むとは限らない。
こういう状況から立ち直るために手当てすべきは第一の絆の方である。つまりは、まず愛されること、愛されていることを知ることによって、これを回復せねばならないのだ。では、それはいかにして可能なのだろうか。